スポーツにおける正義の話

今、北京で冬季オリンピックが行われている。

 

 

今大会では(案外毎大会のことかもしれないが)、審判の不可解な判定や採点、他国選手のグレーなプレーが連日報道されている。

 

 

プロの選手と一緒に並べるのは失礼かもしれないが、自分も趣味でスポーツをする身として、似たような経験がある。

 

 

 

私はとあるスポーツの社会人コミュニティに属していて、(ほぼ)毎週末その練習に参加している。

コロナが蔓延してからは全く行われていないが、以前はチームに所属し、全国優勝を目指していたこともある。

 

 

お互い真剣になればなるほど、プレーや気持ちに熱が入るものである。

普段の練習ではスルーするようなミスジャッジやアンフェアなプレーを見過ごすことは到底できない。

よくサッカーの試合などで審判に抗議している選手を見るが、あの気持ちはとてもわかる(抗議したこともある)

審判が見ていないのをいいことに、本来反則であるはずの妨害プレーをされると、たまったものではない。

 

意図的にそういうことをしてくる輩は一定数いて、そいつらは人間のクズだと内心思っているが、果たして正しいのはどちらなのだろうか。

 

 

スポーツにおいて審判は絶対であるとよく言われる。

絶対である審判が反則をとらない、すなわちそれは許可されているプレーであるという見方もある。

その思考の人間は結構いて、彼らは審判が見ていないところでは、たとえそれがルールで禁止されていようと当然のごとくアンフェアなプレーをしてくる。

彼らは正しいのだろうか。

 

 

まず整理すると、スポーツにおいて絶対なのは、ルールだ。

これは揺るがないことである。

なぜならこれが揺らいでしまうとスポーツをやる意味がない。

 

そして審判の仕事は、そのルールに則って試合を進行させることである。

ルール違反があれば、それに罰則を与えなければならない。(罰則を与えることも一つのルールである)

つまり、ルールに反したプレーを見逃しているというのは審判の怠慢である。

アンフェアなプレーが野放しになっていることに対してまず責めるべきは審判である。

「審判は絶対」というのは悪しき風習である。

ミスジャッジを責められて「審判は絶対だろ」と逆上してくる審判もいるが、あんなのは驕り昂りである。今すぐ審判をやめた方がいい。

 

 

では、責められるべきは審判だけなのだろうか。

これに対する私の答えはノーである。

ここからは良心やマインドの話であり、論理的な話ではない。

 

ここで、スポーツを社会に喩えたい。

ルールとは法であり、審判は警察や司法である。

警察に捕まらなければ、人を殺してもいいのか。

そうではないはずだ。

なので、私はアンフェアなプレーを意図的にするような輩は責めるべきだと考える。

あいつらは警察がいなければ人を殺すような輩だ。人間のクズだ。

ただ、「警察に捕まらなければ、人を殺してもいい」という考えを持っている人は一定数いるだろう。

日本で殺人事件が少ないのは、警察が優秀だからであり、人間が皆良心を持っているからではない。

「アンフェアなプレーを意図的にするような輩は責めるべき」というのはあくまでも私の個人的意見に過ぎない。

 

 

 

結局、対戦相手は人間のクズと割り切って試合に臨むしかないのだ。