週に一回のランニング習慣
以前、こんな記事を書いた。
私は、趣味でとあるスポーツを大学時代から嗜んでおり、社会人になった今も知人達と練習している。
基本的に、とくに予定のない週末は練習するようにしているので、だいたい月に3回ほどの頻度である。
去年の7月、お腹周りがたるんできていたので、チームメイトから週に一回20分以上のランニングをするよう義務付けられた。
びっくりすることにその習慣は今も続いている。
9ヶ月欠かさずランニングしている。
ここまで継続させたのは素直にすごい。
感じた変化
ランニングを続けたことで、いろいろと変化があった。
まずは体重の変化だ。
私は身長170cm(正確には170.5なので、171と記載するほうが適切だけどな!)だが、当時は結婚式も終え順調にリバウンドしており、日によっては69kgほどあった。
それが今は61kg。
8kgの減量である。
ぷるぷるしていたお腹周りもシュッとしてきた。
ただ、これは同時期にお米を食べなくなったことの寄与が大きいと見られ、ランニングの成果と言うのは早計である。
一番の変化は体力の増強だ。
ランニングしてるんだからまあ当然である。
週末にとあるスポーツの練習をしているのは既に書いたが、ここでのパフォーマンスが明らかに変わった。
今までしなかった(できなかった)ようなプレーをするようになった。
思考と体力
スポーツにおける思考
ここで、スポーツにおける思考の話をしたい。
たいていのスポーツ、特に個人競技ではなく対戦競技では、プレー中(試合中)に様々な選択を行う。
例えばサッカーでは、ボールを持ったときに、ドリブルをすべきか別の人間にパスを出すべきかといった選択や、パスを出すとしたら誰に出すべきかといった選択を行う。
スポーツにおいて、挙げられた選択肢の中からどのような選択をするかはとても重要である。
テレビのスポーツニュースでは、ロングシュートを打っただの、特大ホームランを打っただの、スーパープレーばかり注目されるが、これは選択した後の実現力である。
もちろんそれも大事なのだが、それと同じくらい選択が重要だと思っている。
そのため、私は練習の内外で様々な選択肢とそれがもたらす結果をインプットし、試合中のプレーに反映している。
制約としての体力
ここで、体力の話に戻す。
私は試合中の選択において、体力とは制約だと思っていた。
試合中、その状況におけるたくさんの選択肢が挙げられ、その中で体力的に不可能なものは選択肢から外す。
具体的な例で言うと、今ここでトップスピードで走るという選択肢は存在しているが、残りのスタミナ的に実現できないので除外する、といった感じだ。
そして、残った選択肢から一番期待値が高いものを選択する。
そのため、できるだけ選択肢を排除しないように、体力増強が必要と思っていた。
しかし、これは少し違うのではないかと思うようになった。
体力が先
ランニングによって体力がついてきたと感じていた中、練習中にふと無意識にいつもと違うプレーをした。
結果としてそのプレーは良いプレーだった(良い選択をした)のだが、驚くことにこの選択肢は今まで考えたこともなかったのだ。
私の今までの考えでは、体力より思考が先にあり、体力というのは思考の材料でしかないと思っていた。
しかし、そうではなかったのである。
まず体力が先に存在し、そのコンディションによって様々な選択肢を考えていたのだ。
体力がついてきたことで、今まで思いもよらなかったような選択肢が出てきた。
だからなんだよ、と言われればそれまでで、どちらが先だろうが、体力をつけることが大事であることに変わりはない。
ただ、私にとっては新鮮な発見だった。
日常生活でも
体力によって思考が生まれるというのは、スポーツに限らないのではないだろうか。
(これは明らかな論理の飛躍、学問的に言うと定義域の拡張なので本当に成り立つかどうかは検証が必要ではある)
人間疲れているときほど、マイナス思考に陥りやすい一面はないだろうか。
実際、私はここ数年適応障害で苦しんでいたが(厳密には現在進行形だが)、当時は自分には現状を打開する方法は全くないように思えていた。
しかし、今当時を振り返ってみると、「あのときこういう行動をとればよかったのではないか」といった考えが浮かんでくる。
(だからといって、当時の自分の苦しみを否定する気も、当時私を苦しめていた人間や環境を正当化する気もない)
苦しいときはまず休め、人に相談しろ、というのは、そういうことなのかもしれない。
ということで、他部署のおっさんからのクソめんどくせえチャットが飛んで来たときは一旦無視してお菓子を食べるようにしています。