褒められたい

 

 

 

褒めてもいけない。怒ってもいけない。

 

 

 

これは「嫌われる勇気」に書いてあったアドラー心理学の教えである。

 

なぜなら「褒める」「怒る」という指導をすると、報酬が目当てになってしまうからだ。

 

人間自分の目的のために生きるのであり、人から褒められたり、怒られないようにしたりするために生きるのではない。

 

そのため、誰かを教育するときは褒めてもいけないし、怒ってもいけないのだ。

 

 

しかし、私は思う。

 

 

 

褒められたい。

 

 

認めてほしいだけ

別に「よくやったねーよしよし」としてもらうために生きているわけではない。

 

ただ、自分が頑張っていることを誰かに認めてほしいのだ。

 

たとえそのために生きているわけではなくても、他人から認められることで自分の行っていることが間違っていないと、自分は頑張っているのだと客観的に裏付けられるのだ。

 

 

頑張っているね。

 

 

その一言をもらえたらどれだけ楽になるか。

 

でも実際はそんなことを職場の誰も言ってくれないのである。

 

怒られることはあっても褒められることはない

職場で褒められることはまず少ない。

 

でも怒られることは多い。

 

フェアではない気がするが、仕事というものの性質上仕方ないのかもしれない。

 

仕事は給料をもらう以上、「できる」ことが当たり前であり、「できない」と問題なのである。

 

できないと怒られる。できても褒められない。

 

 

自分で自分を肯定する

たしかにアドラーの言うように褒められることを期待してはいけないのかもしれない。

 

だったら怒るのもぜひともやめていただきたい、というのが本音である。

 

別に私は褒められるために仕事をしているわけではない。

 

若手ゆえにミスをしてばかりで、自分が本当にこの職場に貢献できるのか自信が持てないのだ。

 

「褒められはしない、でも怒られはする」という環境だと、つい自分が役立たずのように感じてしまう。

 

まわりがしてくれないなら、自分で自分を肯定したい。

 

それくらい許されるのではないか、アドラーよ。

 

職場という自己肯定しにくい環境

会社に入るまでは自己肯定がしやすかったのかもしれない。

 

学校にはテストがある。

 

それで良い点がとれれば、簡単に自己肯定できる。

 

今までの自分の努力が肯定される。

 

私は高校時代陸上部に所属していたが、自己ベストが出たときの報われた感は忘れられない。

 

大学に入るとあまり自己肯定する機会がなかったように思うが、ミスをして怒られるということもなかった。

 

だからまだ平穏を保てたのかもしれない。

 

今の私の職場は、ミスをすると当然怒られるが、ポジティブフィードバックは皆無である。

(他の職場は違うのだろうか)

 

いかに自分で自分の努力を認めるか。

 

わかりやすいのは何か大きな仕事の区切りがあったときだろうが、なかなかそういうものは頻繁に訪れない。

 

大事なのは「自分は頑張っている」という気持ちなのかもしれない。

 

 

自分は頑張っている。

 

よくやっている。

 

 

せめて自分だけは自分を認めてやる。

 

それを習慣にすればもっと楽になるかもしれない。