16年ぶりに祖父母の家を訪ねた話

16年ぶりに祖父母の家を訪ねた。

 

16年という月日は長かった。

 

 

 

行かなくなった祖父母の家

私は広島で生まれ、18歳までそこで過ごした。

 

父方の祖父母の家は広島市内の我が家から車で1時間、母方の祖父母の家はさらにそこから車で30分行ったところにあった。

近くに電車もバスも通っていない、正真正銘の田舎である。

 

盆と正月は、父が車を運転し、両方の家に2泊ずつしていた。

 

車で1時間、1時間半というのは、今でこそそれほど遠く感じないが、子どもだった当時の私からすると、とても遠い別世界で、夏休みと冬休みのその数日間は特別な時間だった。

 

しかし、その里帰りもいつしかしなくなった。

 

一番の理由は父方の祖父が認知症を発症したことだろう。

私達家族全員で里帰りすると、父にとっては介護の邪魔になるということで、父だけが定期的に様子を見に行くのみで、私達が里帰りすることはなくなった。

母方の祖父母の家は更に奥に位置するので、自然と訪れることはなくなった。

 

 

そして、私は高校を卒業し、進学のため上京した。

そのすぐ後に父方の祖父が他界し、介護の必要はなくなった。

しかし、このときには私にとって父や母に会うために地元に戻ることが既に「里帰り」になってしまい、そこから更に父方の祖母、母方の祖父母の家に行くことはしなかった。

この頃から、父と父方の祖母(父にとって実の親)の間の仲が少しずつ悪くなっていき、父に「連れて行って」というのは言いづらかったのかもしれない。

そして、父と母方の祖父母の関係はもともとあまり良好な関係ではなく、同様に母方の祖父母の家には行けなかった。

 

そして、今、私と父は絶縁状態にある。

この経緯について書くと長くなってしまうので省略するが、父はおそらく私に怒りや憎しみの感情を抱いており、会うことや連絡をとることもない。

 

そんな状態でいるということをいつだったか妻に話したとき、妻から母方の祖父母の家には行けるんじゃないかと提案された。

 

たしかに、母方の祖父母の家は父の管理下にはないので、直接私が行けば何も問題ない。

(一方、父方の祖母は父と仲が悪いとはいえ、父が面倒を見ており、父の管理下にある)

遠いとは行っても、新幹線で広島まで行き、広島市内からレンタカーを運転すれば1〜1.5時間程度で着く。

やろうと思えばできる。ただやらなかっただけで。

コロナも世間的に騒がれなくなったので、意を決して会いに行くことにした。

結婚の報告もきちんとしていなかったのでそれも兼ねて。

(お祝い金はたくさんもらっており、お礼の電話をするに留まっていた)

 

 

当日まで

まずは祖父母に電話をした。

「会いに行きたい」と言ったらひどく驚かれた。

そりゃそうである。もちろん今まで定期的に電話自体はしていたが、16年も訪ねていないのだ。

そんなことを言われるなんて予想だにしていなかっただろう。

 

訪問日を伝え、自分で車を運転して行くつもりであることを言った。

 

しばらくして、訪問日が近くなったあたりで、祖父母と一緒に暮らしている叔父から連絡があった。

(叔父は奥さんと二人で祖父母の隣の別棟に住んでいる)

なんと近くの駅まで車で迎えに来てくれるらしい。

広島駅から40分ほど在来線に乗っていった駅までなら迎えに来てくれるとのこと。

祖父母の家から近いとは言っても、その駅から車で45分ほどかかる。(決して近くはない)

都市部から車で最短ルートを行けばトータルでは短いが、レンタカーを借りなくてすむし、何よりペーパードライバーの私としては安全だ。

ありがたく迎えに来てもらうことにした。

 

 

駅で合流

当日になり、広島市内のホテルに泊まっていた私と妻は午前中に出発した。

ちょうど中国地方一帯を豪雨が襲ってきていたのだが、運良く雨は上がっていた。

 

在来線で揺られ40分。

妻は眠っていたが、私は車窓からの景色を眺めながら「よくここのショッピングモールに友達と遊びに来たな」とか「この駅は〇〇(高校の同級生)の最寄り駅だったな」などと考えていた。

 

そうして、約束の駅に到着した。

私は緊張していた。

実を言うと叔父とはそんなに仲良くないのである。

決して仲が悪いわけではない。別に仲が良いわけではないのだ。

私が祖父母の家を訪ねていた当時、叔父は30代のおじさんで、子どもからするとなんともいえない「こわい」存在だった。

怒鳴られるような「こわさ」ではなく、よくわからない「こわさ」だった。

(子どもにとって30代のおじさんはなんかこわいものだ)

当時叔父は独身で、今思えばおそらく子どもの扱い方が分からなかっただけだと思うが、私達が訪ねている間は基本的に叔父の住む別棟から出てこなかった。

あまり会話をしたこともなく、ただお年玉だけはくれ、そのときも「あ…ありがとう、おじちゃん…」とどこか気まずさを出してしまっていた(今思えば大変失礼な話だ)

 

そんな叔父に車で迎えに来てもらい、40分ほど車で会話をするのである。

初対面の妻の紹介もしながら。

大丈夫だろうか。

 

そんな不安を考えながら待ち合わせ場所に着いた。

ここで気付いた。

叔父の車が分からない。

昔は紺色の車に乗っていたような記憶があるが、16年経っているのだ。

車種も変わっているはずだ。

迷っていたところ、一つの車が私達の前に来て、停車した。

男性が降りてきた。

 

ここで私はとても驚いた。

叔父がひどく老けていたのだ。

当時アラフォーだった男性が今は50代半ばになっているのだ。

当然なのだが、ショックだった。

黒髪は白髪交じりになり、皺もかなり増えていた。

叔父の醸し出すなんともいえない「こわさ」にどこか大人のかっこよさを見出していたところもあり、尖りのなくなった姿は別人だった。

正直に言う。目の前の男性が叔父であるという自信さえ持てなかった。

状況を考えればおそらく叔父なのだが、「これ叔父さんだよな?たまたま同じシチュエーションの別の男性が出てきた可能性もあるんじゃないか?」と思いつつも車に乗った。

(叔父もなかなか私の名前を呼ばなかったから余計困った)

 

 

到着

叔父の運転する車内で、叔父に妻の紹介をしたり、妻に叔父の話をしたりしてなんとか会話を繋いだが、長続きはしなかった。

天気の話は何回もした。

 

微妙な気まずさになんとか耐えつつ、祖父母の実家に着いた。

 

着いた瞬間、すぐに祖父と叔父の奥さんが出てきた。

そして、祖母と隣町に住んでいる祖母の姉(私はおばちゃんと呼んでいる)が出てきた。

祖母の姉まで来ていると思わなかったので驚いた。

(妻は似たようなおばあさんが二人も出てきたので困惑したらしい)

 

 

変わったもの、変わってないもの

16年ぶりに訪れた祖父母の家はあの頃のままだった。

玄関の前の長い激坂も、坂の横にある段々畑も、あの頃と同じようにそこにはあった。

しかし、よく見ると叔父の住む別棟にソーラーパネルが付いていたり、裏山に立派な墓ができていたりと私の記憶にはないものがチラホラあり、たしかに16年という月日が流れていることを感じさせた。

 

 

祖父はピンピンしていたが、祖母は腰が90度曲がっており、黒かった髪も全て白髪になっていた。

それを祖母自身は気にしているようで、「醜くなってごめんね」としきりに言っていた。

私からすれば、続柄としての「おじいちゃん」「おばあちゃん」が、世間一般の「おじいさん」「おばあさん」の見た目になっただけでなんの驚きも悲しみもなかった。

祖父母は85、84歳らしいので、むしろ普通である。(85なのに背筋ピンとしている祖父はすごい)

 

祖父母の姉であるおばちゃんは88歳で米寿を迎えたとのことで、祖母と同じように腰が90度に曲がっていたのだが、普通に元気に車を運転しているらしい。

 

 

食事

部屋に上がると、長机と椅子が並べられ、机には人数分の弁当が置いてあった。

「こんな長机も椅子もなかったよな」と思ったが、どうやらこのために集会所から借りてきたらしい。

 

祖父が乾杯の音頭を取り、弁当を食べ始める。

おそらく近くで買ってきた弁当なのだろうが、刺身が入っており、いいものを用意してくれたのだろうと感じた。

 

改めて妻の紹介をして、昔話をした。

私が覚えていた当時の思い出は全て祖父母も覚えていた。

 

それなりに立派な弁当だったのだが、おばちゃんが惣菜を買ってきたらしくそれを出され、祖父母も柏餅を買っていたらしくそれも食べるよう言われ、さすがに困った。

(帰省のお約束事である)

 

 

写真

食事を終え、庭をぶらついていると、祖父が意気揚々とアルバムを出してきた。

表紙がしっかりと日焼けしたそのアルバムには、私が小さい頃の写真や母の若い頃の写真があった。

 

20代の母を見て衝撃を受ける。

全くの別人だった。

仮に私が今デロリアンに乗って、当時の母に会ったとしても血のつながりを感じる自信はない。

 

おそらく私が小さいときにもそれらの写真を見たことはあったが、大人になって改めて見るとしみじみ感じるところはあった。

 

 

お土産

夕方になり、私達は帰ることにした。

 

祖父母は泊まってほしかったようだが、私達としてはあまり負担をかけたくないと思い、日帰りにした。

 

帰り際、祖父がお土産を持ってきた。

とある果物のゼリーとジャムが入った箱。

それを2つも。

(なぜ2つもくれたのかはわからない)

おばちゃんからも大きな箱に入ったゼリーと結婚祝い金をもらい、私は思わず泣いてしまった。

 

16年も顔を見せなかった自分を恥じた。

 

こんな私を変わらず大切に思ってくれていることに感謝した。

 

昔の自分は祖父母からお土産をもらっても、泣くほど感謝することはなかった。

しかし、誰かのために何かを用意するという行為には気持ちがこもっているということが今はわかる。

 

 

祖父母達に別れを告げ、帰りは叔父が助手席に座り、叔父の奥さんが運転してくれることになった。

帰りの車内は行きよりも会話が少なかったが不思議と気まずさはなかった。

 

 

帰りの電車

行きで拾ってもらった駅にまた戻り、叔父夫婦に別れを告げ、広島方面への電車に乗った。

電車に乗った途端、ものすごい大雨が降り始め、運が良かったという話をしているうちに妻は眠ってしまった。

 

私は大雨が降る外の景色を見ながらぼんやりとその日を振り返った。

 

 

祖父母やおばちゃんは相応に歳を重ねていた。

一番大きな変化は叔父の風貌だった。

叔父が結婚したのはかなり遅く、叔父の奥さんと会ったのは16年前の一度きりだったので、あまり変化は分からなかったが、50代にはとうてい見えなかった。

 

おそらく叔父とはその日一日だけで過去の通算会話量を超えるくらい話した。

LINEも交換した。

 

 

祖父母の家は多少の変化はあったものの、ほとんど変わっていなかった。

しかし、懐かしさという感情は全くわかなかった。

16年前というと、私の29年の人生の前半部分であり、「懐かしい場所」ではなく、「知っている場所」になっていた。

たとえるなら、観光地に行ったときの「ここテレビで見たところだー」という感覚に近い。

 

 

変わった変わってないで言えば、一番変わったのはおそらく私だ。

当時140cmしかなかった中学1年生が、声変わりも経て髭も濃くなったアラサー男性になっているのだ。

祖父母達にとっては相当な衝撃だったはずだ。

しかし、青年期が丸々抜けているのにもかかわらず、どういうわけか私の見た目の変化にはあまり触れられなかったし、私を過去と同じように扱ってくれた。

 

うまく言葉にできないのがもどかしいが、家族や血のつながりというのはとてもすばらしいことだと感じた。

(時にはそれに苦しめられることはあるが)

 

 

そんなことを考えているうちに広島駅に着いた。

外は相変わらず大雨で、雨嫌いの妻は不機嫌になっていたが、私の気持ちはどこか晴れやかだった。

 

たった数時間の訪問ではあったが、私の人生にとってとても大事な一日であったように思う。



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